VOS,No.112

 特集/世界から・世界へー新しい国際交流ー [Back]

教官の留学体験
自由と責任
高 原 美 規
(生物系 助教授)

 私は1999年9月より,米国のカリフォルニア大学デービス校に1年間,在外研究員として滞在しました。米国の大学で感じたことはやはり,自由を大切にする気風です。大学院のセミナーでは,真剣で活発な討論の一方で,飲み物とスナック持参で足を投げ出して椅子に腰掛けるなど,自由でリラックスした雰囲気があります。
 普段の生活でも,スーパーの野菜や果物は,大きさ形の不揃いなものや,店晒(たなざら)しで痛んだものまで全て山積みにされています。これは買う人が欲しい物を吟味して買うためで,日本では売る店側が配慮することが,買い手の自由に任されています。
 自由は自己決定権の保証とそれに伴う自己責任からなるものです。痛んだリンゴを買ってしまっても,それは買った者の責任です。様々な国から米国に移民や留学生が集まるのは,自由と自己責任という原則が貫かれている社会だからなのかもしれません。
 米国では,どの大学でいつ学ぶかを比較的自由に選べますが,修了できるかどうかは本人の努力次第です。日本でも,少子化で大学・大学院へ進学するためのハードルが低くなる一方で,留年や退学する学生も増えています。入りやすいが卒業は難しいという米国式の状況に向かう以上,自己責任の自覚が重要になってきます。ただ、講義やセミナーに学生が茶菓子持参というのは、私は認めませんが。
カルチャーショック
丸 山 久 一
(環境・建設系 教授)

 マスメディアにより,居ながらにして,世界の情勢が映像で入る時代である。地球上には独自の文化を有する多種多様な民族がおり,時々,文明の衝突による悲劇を繰り返しているというのがよく分かる。
 ところで,智識(ちしき)として観念的に理解することと,肌身を通して体得することの間には相当な距離がある。それを思い知らされたのが,27年前に初めて米国に留学した時であった。言葉によるコミュニケーションがうまくいかないのは覚悟の上であったが,それにもまして,日常の生活で戸惑うことが多かった。やることなすこと,ことごとく思うに任せず,最初の1年間は緊張の連続であった。
 相手の言うことが分からず,自分をうまく表現できないことだけが問題なのではなく,彼らの感じ方,考え方が違うことに戸惑った。それが分かって,緊張感が和らぎ始めたのは,丸2年を過ぎた頃からだった。皮膚の色や目の色が違う人が回りにいても気にならず,自分の髪や皮膚の色を忘れていた。
 3年半後の帰国時には,逆のカルチャーショックを受けた。どうして髪の毛の黒い人ばかりなのかと。
 異文化間の相互理解は,口でいうほど易しくはない。種々の衝突を通して違いを認め合い,同じ問題を共有して,人間としての共感を得ることが,真の相互理解のスタートである。キーワードは,ショックに負けず,忍耐強くあきらめず。