VOS,No.115

 卒業・修了を祝して [Back]

志を持って
長野工業高等専門学校校長・前副学長(教育担当) 井上 明俊
 大学卒業又は大学院修了の皆さん,真におめでとうございます。
 今年は,米国のペリーが浦賀沖に来航してから,ちょうど150年目に当たります。200年間以上にわたって鎖国してきた日本に,突然,黒船がやってきた時の,人々の驚きや狼狽は,さぞかし大変なものであったろうと推測されます。
 その時代に生き,悩み,行動した代表的人物の一人として,吉田松陰が挙げられます。吉田松陰は,1830年に生まれ,毛利家に仕える兵学師範の家を嗣ぎます。当時,日本を含む東アジアは激動の時期に入っており,隣国の清は,イギリスにアヘン戦争で敗れ,これをきっかけに欧米の列強による中国侵略が始まります。日本近海にも,列強の軍艦が出没するようになり,日本も一つ間違えば,隣国の清のように列強に侵略される危機的状況にありました。
 このような情勢を背景に,松陰も外患や海防に強い関心を持ち,1850年には,長崎や平戸で海外情報を収集し,翌年には江戸に出ます。佐久間象山の塾では,長岡藩の小林虎三郎と同門となり,二人は「二虎」と象山から重用されたといわれています。(松陰は,幼名を寅次郎)
 1854年,ペリーが軍艦を率いて浦賀に二度目の来航をした際,松陰は,アメリカへの密航を企て失敗し,幕府に捕縛されます。その後,長州に送られ,幽閉されますが,ここで,松下村塾を襲用し,高杉晋作,山県有朋,伊藤博文など幾多の人材を育てます。1859年,安政の大獄といわれる幕府の弾圧により処刑され,29歳の短い生涯を閉じます。
 松陰の思想は,一言で言えば,勤皇攘夷です。既に徳川幕府の支配体制は崩れてきており,天皇を中心とした新体制を構築するしかなく,また,攘夷といいつつも,鎖国を維持するのではなく外国と対等の立場にたった開国をすべきだと考えたのです。
 毛利藩の要職についての安泰な人生を捨てて,何度も幕府の禁を犯し,牢獄につながれ,最後は死罪になってしまう途に彼を駆り立てたのは,一体何だったのか。
 それは「志」だったのではないでしょうか。欧米列強による侵略の危機から日本を守り,国際的に独立国としての認知を得るためには,幕府の旧弊を打破するしかなく,このことによって初めて,新しい日本を創り,人々に平和で安全な生活を保障できる。松陰は自らの決意を、「意を決して之(こ)れを為(な)す。富嶽(ふがく)崩(くず)ると雖(いえど)も,刀水(とうすい)竭(つ)くと雖(いえど)も,亦(また)誰(たれ)か之(こ)れを移易(いえき)せんや」と表しています。新しい歴史を切り開くという強い「志」のため,命を犠牲にすることもいとわなかったのです。
 松陰は29歳で,この世を去りますが,そのチャレンジ精神,ヒューマニズム,日本創生への志は,明治の偉人達に引き継がれ,さらには,その思想は現代にまでも受け継がれてきました。
 現在,我が国は景気が低迷し,若者の間に閉塞感が広がっているといわれています。しかし,松陰の生き方をみると,人生を送るに当たって,自らの存在意義を問うてみること,自らの「志」を考えてみることが,如何に大切かということが痛感されます。
 皆さん方が,充実した人生を送られることを,心からお祈りします。



未来に明るい夢を描いて
長岡市長 森  民夫
 長岡技術科学大学を卒業・修了される皆さん,誠におめでとうございます。それぞれに大きな夢と希望を抱いて,新たな道を進まれる皆さんに心からお祝いを申し上げます。
 全国各地,あるいは世界各国から,この長岡技術科学大学を選ばれ,長岡のまちで人生の一時期を過ごされたことは,皆さんにとって忘れがたい思い出になることでしょう。勉学・研究という厳しくも,また楽しい自己鍛練の時代が,長岡のまちの記憶と分かちがたく結びついて皆さんの心に残ることは,私たち長岡市民にとっても大変うれしいことです。
 長岡のまちと長岡技術科学大学とのつながりは,単に「市内にある大学」というものではなく,開学以来,長岡の産業やまちづくりと密接な関係を築いてきました。とりわけ,地元企業や行政との産学官連携によって地域産業の高度化に多大な成果を生み出してきました。また,長岡まつりや技大祭などのイベントや「ながおか市民大学」などの公開講座を通じて,広く市民との交流が続いています。
 そして,こうしたつながりは,長岡から数多く旅立って行ったかつての「技大生」によって,全国各地,世界各国にネットワークとして広がっていると言っていいと思います。これから巣立つ皆さんも,このネットワークの一翼を担って大いに活躍されることを期待しております。
 さて,経済状況が一段と厳しくなり,企業の経営環境や雇用情勢の悪化が続いています。皆さんの晴れの門出には,誠にふさわしくない時代状況と感じられるかも知れません。
 そこで私は皆さんに,長岡のまちに伝わる「米百俵の精神」を思い起こしていただきたいのです。この話は,皆さんもご存知のことと思います。日本が近代国家への大転換期に経験せざるを得なかった戊辰戦争で,長岡のまちは灰塵に帰しました。飢えに苦しむ長岡に見舞いとして送られた百俵の米を,当時の指導者・小林虎三郎は人々の救援の食糧とせず,これを元手に学校をつくったというものです。
 この故事の意義をあらためて考えてみますと,必ずしも単に我慢をして将来に備えるというだけの消極的なものではないと思います。あの食べる物もない厳しい状況の中で,いつまでも暗い過去にとらわれるのではなく,目を未来に転じ,子供たちのために学校をつくることによって,長岡が大きく発展する夢を持つ。そのように大きな視点で遠くを見つめながら今を生きるという前向きなところに,大切な意義があったのではないかと思うのです。実際,その後の長岡には多くの人材が育ち,いち早く産業が興り,病院や銀行などの近代施設が整う時代を迎えました。
 確かに今は厳しい時代ですが,いつの世でも何がしかの問題はあるものです。大事なのは,ものごとを前向きに捉える姿勢です。皆さんが,常に志を高く持って明るい未来を描きながら,母校で身に付けられた実践的な能力を十分発揮されれば,必ず道が開けてゆくものと確信しています。
 米百俵のまち長岡は,いつまでも皆さんを応援しています。



旅立ちに向けて
国立高等専門学校協会会長・宮城工業高等専門学校校長 四ツ柳 隆夫
1.心に一本の木を
 あまりにも自信をなくしている我が国の現状を見るにつけて,科学技術立国の再構築を目指して新しい世界へと旅立つ皆さんに,歌人 加藤克巳の歌を贈ります。
  「心に一本の木を」 
  日はのぼり 日はまた沈む
  いつのときも
  われに凛(りん)たり 
  心の一樹

2.技術文化の再構築への挑戦
 今まで通りのやり方で頑張れば我が国の景気が回復する見込みがあるなどというのは幻想です。人間は,どうしても成功したやり方にこだわりますが,「それこそが衰退の原因だ」とする歴史の見方があります。国の盛衰は世の常です。衰えの時期を経験できるのは,その国が輝かしい歴史を経たことを意味します。ですから,これは悲観すべきことではなく,我々は,それを基盤として,したたかに新しい技術文化の構築を目指す機会を得たものと理解すべきでしょう。
 この文化の再構築事業への挑戦は,若人に付託された特権です。皆さんは,その栄光を目指して旅立てる幸運に恵まれたわけです。そのためには,「われに凛たり心の一樹」が是非とも必要です。この長岡のキャンパスで培った「技術者のこころ」を,一本の樹に育ててください。

3.テクノロジーの世紀
――限りない「知」のフロンティアへ
 技術を通して人類に生き甲斐をもたらす仕事は,それ自体が新しいフロンティアです。無限の可能性がそこにあります。人類が蓄積してきた多種多様な学術情報と物質群を前にして,「それらを複合・融合して新しい働きを生み出すシステム」をデザインする視点に立つとき,眼前に広がる「知」の高次元空間のフロンティアを実感できるでしょう。
 田中耕一さんのノーベル賞に結びついた業績は,物質が組み合わさってできる「複雑系システムが新たな機能を発揮したもの」と理解することができます。発見するまでは予測が不可能な特性をもつ点がこのシステムの難点です。「出会ったとき,これだ」と見抜く鋭い眼力を鍛えておくことが必要ですが,この種の可能性は,常にすぐそこにあるものです。これらこそ「技術の世紀」の夢の入り口の一つであり,あらゆる技術分野や学問分野へと旅立つ皆さん方全員に共通する,希望への手がかりです。

4.生き甲斐の創造こそが技術者の使命
 長岡技術科学大学で「技術者の心」を身につけた皆さんが,高次元情報空間のフロンティアの世界で活躍する姿を期待し,それを誇りにしたいと思います。
 心に「凛とした一樹」を育てて,プロフェッショナルエンジニアとして世の人々のために「生き甲斐をもたらす技術」を生み出すとともに,自らも幸せをつかまれることを期待しています。

 GOOD LUCK!