VOS,No.115

 退官にあたって [Back]

長岡技科大での生活を振り返って
藤井 信行(化学系教授)
2002年7月15日 第19回IUPAC光化学シンポジウム
(ブタペスト)にて
 私が本学に赴任したのは開学3年目の昭和54年4月であり,それから24年が過ぎようとしている。まさに光陰矢のごとしの感に堪えない。赴任して最初の7年間に,10年に1度という豪雪に4冬も見舞われたことも,最近の小雪からは考えられなことであり,その大変さも今では懐かしく思い出される。
 赴任当初から,本学が高専卒業生の高等教育のための大学であり云々と,通常の大学と違うことを認識させられ,講義や実験のカリキュラム見直しを行ったこと,また,学生実験を行うにあたり必須の安全の手引きの作成に関わったこと,実験実習棟,博士棟,物理・化学棟の建設,部屋配属等の雑事に関わったことが思い出される。学内の各種委員の内,就職委員をしていた平成初期は,バブル崩壊寸前の好景気時で,大企業から好条件の求人が多く,今から思うと隔世の感がある。また,系長時代には,生物系設置で拠出した有機講座を,留学生特別専攻講座として回復できたのも大きなことであった。
 学外では,学位授与機構の専門委員として,高専専攻科設立に最初の7年間携わったこと,大学入試センター専門委員として問題作成に携わったこと,新潟県の環境関係の委員就任も良い経験であった。
 私の専門は,熱,プラズマおよび光励起による気体の反応物理化学である。本学に赴任して最初の研究実験活動は,学生実験棟2階の隅に1期生の4年生と行った,一種の断熱圧縮加熱器である衝撃波管実験装置の仮組立である。それ以来,私のグループでは衝撃波管法を用いて,燃焼や大気汚染物質の生成等に関する各種高速高温反応過程を主に分光学的に観測し,併せてコンピュータシミュレーションを行い,反応機構や速度に関する研究を行っている。
 その後,衝撃波管末端に超音速膨張ノズルを取り付け,衝撃波加熱による高温の炭酸ガスを急膨張して得られるボルツマン反転分布によるガスダイナミックレーザーの基礎研究を始めた。これは私のレーザー研究の最初である。続いて,1.3μmで発振する化学酸素ヨウ素レーザーに関係した基礎研究を行った。このレーザーは,過酸化水素と塩素の反応で選択的に生成する一重項励起酸素を用いてヨウ素原子を発振させるレーザーである。この応用研究として,励起酸素の発生とヨウ素の解離をマイクロ波プラズマで行う放電酸素ヨウ素レーザー,励起酸素のエネルギー移動によるハロゲン化金属の励起などの基礎研究,マイクロ波放電酸素プラズマによる塩化ビニルなどの高分子分解過程の解析も行っている。
 最近は,YAGレーザーを用い,大気化学関連の反応励起やレーザー誘起蛍光法によるラジカル活性種の検出,クラスター生成過程の研究も行っている。
 最後に,お世話になった教職員の皆様,特に私を支えていただいた野坂教授,小林助教授,村上助手に感謝の意を表したい。また,これからの本学は独法化,COE対応などに加えて,高専の技科大離れなど多難な情勢下にありますが,これらを解決して,本学がますます発展することを祈念しております。





昔のことなど
鈴木 忠(教務部長)
筆者近影
 昔のことを言うようになるとおしまいだ,などと言われていますが,私もおしまいにひとつふたつ昔のことを言ってみようかと思います。
 本学の一般選抜入試業務は昭和53年度入試からですが,一期校・二期校入試最後の年で,最後の栄えある(?)一期校としての入試を1回だけ実施しました。講義棟は建設中で,長岡短期大学(現長岡大学)をお借りしての入試でした。教員も教授4人しか着任していなくて,試験監督等は企業等から本学教員就任予定の方々に委嘱しました。
 この頃大学の車は,学長や事務局長等がお出かけになる業務の担当者が運転手を勤め,庶務・人事の仕事の時は私が運転手になり,川上学長をお乗せして出向くことがありました。川上先生はお話好きな一面もありまして,越後美人というがどこにいるんだ,とか,たばこの花をご覧になって,花だけでタバコを作ったらさぞ美味いだろうな,とか,ソバの花・ウドンの花の話などをされていました。
 平成4年4月に私は北見工業大学に転勤し,入試専用用語も知らない入学主幹でしたが,北海道大学派遣の腕利き係長が万事遺漏無くやってくれました。2年目はその係長も北大へ戻り,入試も勉強してくると今度は怖くなり,3年目はなるようにしかならない,と達観した次第です。
 次いで新潟大学入試課長を3年間勤めました。北見工大で勉強した成果で仕事をしていたのですが,心ならずもTVにも登場しました。県内ですからご覧になった方もおられるのではないでしょうか。
 その後岐阜大学学生課長として3年間勤務し,都市型と地方型の両面の性格を持った中規模総合大学の学生支援業務に従事しました。
 本学は新構想大学として発足し,それまで国立大学が手掛けなかったことがらに挑戦してきました。たとえば授業料の徴収方法や,4月早々の入学式に始まる学年暦など,現在では各大学も導入していますが,当時としては画期的だったのです。それでも国立大学という大枠の中で生かされなかったアイデアもあったと思います。国立大学の法人化が目前に迫っていますが,これは本学が標榜する独創性とその実践を遺憾なく発揮できる好機と捉え,前向きに対処して頂きたいと願っています。
 思いがけずにご縁があって,最後に再び本学で勤務することができましたことは誠に光栄に思っております。法人化を目前に退職することはいささか残念に思いますが,皆さんの一層のご活躍と,長岡技術科学大学のますますの発展を祈念しております。



思い出の一端
小黒 三郎(学務課技術班技術長)
昭和61年4月19日(土)
小型雪押込機市内実験場(市内柳原町)
装置の概要と性能を説明する筆者
 昭和55年4月1日付けで,17年余り勤務した新潟大学工学部精密工学科から転任して以来23年間,数多くの方々に接しお教えを受けて勤めてまいりましたが,3月末日で退職することとなりました。
 この20年余を振り返ってみますと,転任当時大学は研究棟の建築途中で研究室も十分ではなく,また実験装置や測定機器等も十分とは言えず苦労した思いがあります。
 転任から半年後,それまで技官全員が同じ室に居りましたが,大講座に配属して研究の効率を上げると言うことで,私は生産設計大講座に配属され,助手のいない教授の下で仕事をすることになり,鋳物関係と雪氷関係を主な仕事としてまいりました。
 あるとき担当教授に,球状黒鉛鋳鉄の鋳造を指示されました。この種の鋳物の鋳造は初めてのことなので四苦八苦しながら行ったこと。鋳造した球状黒鉛鋳鉄が予想したより良い結果を示したことが思い出されます。
 10年余りに及び集雪冷房システムの開発に関する産学共同プロジェクトに参加し,メンバーと接するなかで多くの知識を得ることができ,また,幾つかの要素技術の開発に携われたこと,これらは後の仕事に関して貴重な経験となりました。
 その後担当する研究室が替り,仕事の内容も,鋳物・雪関係から加工・計測分野となり,幾つかの共同研究,委託研究に携われたことが良い思い出となっております。
 最後になりましたが,平成16年度の独立行政法人化を目前に控えて忙しい日々を過ごされることと思いますが,長岡技術科学大学のますますの発展と皆様の御健康をお祈りいたします。
 長い間ありがとうございました。



定年にあたり
大野 正明(学務課技術班)
筆者近影
 昭和36年に工業高校を卒業して,すぐに新潟大学工学部に入り,先輩から言われたことは,勉強をしたり,考える時間を作れる場所であるので,「がんばってください」であった。
 そのころは中国が核実験している時期で,メガトン級を大気圏で爆発させていた。それが日本に到達するのに5日から7日かかり,放射能を降らせていた(酸性雨の証明になるかも)。驚いたことに強放射能粒子が1m2の中3〜5個も落ちていた。ガイガ−管で数万カウントもある粒子であった。
 昭和45年ころから機器分析が主流になり,分析者を悩ませたりしたが,原理や,中の様子を見たり,直したりでき,熟練を要した。55年から長岡技術科学大学に配置換えとなり,56年から分析計測センターに配属され,そのころから段々と性能もよくなり,コンピュータ−で演算処理など飛躍的な進歩により,ブラックボックス化されるようになり,熟練者でなくとも,簡単に結果を出せるようになって来ている。
 平成7年から体育保健センターに配属となり,段々と自然に親しむようになり,科研費や会社から奨学寄付金をいただいたので,キノコの胞子図鑑をインターネット上に3年前から毎年載せている。アドレスは(http://inflab.nagaokaut.ac.jp/kinoko/kinoko.html)である。
 近頃,バドミントンをやっても体力が弱ったせいか,以前は遊んでやっていたのに,今は負けてばかりである。そんな若い人達にアドバイスになればと思い,「見ていても見えずでなく,ものを正確に視る眼を養ってほしい。さらに工学にいる以上,興味のあるものに対しては観る(探求)眼で観察する」,その辺から自ずと道が開けていくのではなかろうか?
 皆様の温かい心のおかげで無事定年を迎えることができ,本当にありがとうございました。最後に大学の更なる発展と皆様のご健康をお祈りいたします。