VOS,No.120

 退官にあたって [Back]

なぜ「機械安全」か
田 中 紘 一(機械系 教授)
 私も幸いにして純公務員のまま,心安らかに退官できそうですと云いたいのですが,どうもそうはいかないようです。それは機械系で2年前に立ち上げた社会人キャリアアップコース「機械安全工学」がうまく育ってくれるか心配だからです。これは企業から来た社会人を対象にして,国際安全規格に則した認証の専門技術者を養成するのが目的で,最終的には専門職大学院の構想を目指しています。プロジェクトでは,東京のサテライトキャンパスでの集中講義など新しい試みをいくつか行ったのですが,それを推進するに当たって,事務局は驚くほど好意的に対処してくれました。寧ろ癌は学内の諸委員会における教官の形式主義でした。幸いにして若い教官が積極的にコミットしてくれてプロジェクトもやっと軌道に乗ってきたようです。
 私が本学に赴任してきた当時の学長,川上正光先生は,技学(技術科学)と独創性を強調され,ノーベル賞級の業績を上げろともおっしゃっていました。私は技学とノーベル賞は全く繋がらない話で何を戯けた事を云っていると内心思っていましたが,最近の白川英樹先生や田中耕一氏の受賞内容を見ると我々でもノーベル賞に手が届くのではないかと思わせます。これは純粋科学(理学),応用科学(工学)の時代は去り,技術の発展が先導して科学を発達させる技学の時代が到来したからではないでしょうか。そのため,本学が構築してきた「産学提携」「特許の重視」「実務訓練」「技術開発センター」などは現在の時代にマッチングしたシステムとなりました。しかし,その底に流れているパラダイム(規範となる考え方)がその間に変化したことに気づくべきです。変化は「起業」と「規格」というキーワードで表せます。「産学連携」は企業からの送信を受けとろうという受動的な概念ですが,「起業」は大学から技術やアイディアを能動的に発信していくもので,まさに独創力が問われます。「特許」と「規格」は企業の知的財産管理戦略としては全く相反するものです。前者は技術の革新性を囲い込むことによってパラダイム化を防ごうとし,後者はそれを不特定の企業や技術者にオープン化する事によってパラダイムを形成します。最近は,機械安全や環境保全の様な企業の倫理的社会的責任を規定する規格が制定され,企業の経営や国家戦略の根幹を揺るがすものと成っています。
 規格には認証が付き物ですが,認証産業は日本には全く育っていません。世界的に見ると例えば7000人の認証技術者を擁する企業もありますが,将来日本でも成長産業となるでしょう。我が大学でも認証というソフトウェアを核とした企業を起業することも夢ではないでしょう。この仕事なら退官してもできるので,もしかしたら私も夜な夜な本学に現れるかも知れません。その際は塩を撒いたりしないように。



来た道,行く道
早 川 典 生(環境・建設系 教授)
 私は2003年12月で65歳になり,したがって2004年3月定年退官となります.そして,定年退官というものは来た道,行く道の一つの停留所みたいなものでないか,と思っていたものである。ところがいつのまにか,これまでの人生,これからの人生を少しずつ考え始めている自分に気がついている。
 私は1981年2月に長岡技術科学大学に着任した。長岡技術科学大学創立後3年目であり,既に第一期生が修士1年で在学していた。見るものすべてが新鮮だった。新しい校舎,塀や門の無いキャンパス(これはいまでもそうであるが),北陸の地。
 それにもまして驚いたのは雪の多さであった。この年は今に名高い「56豪雪」の年であった。その後何年か大雪の年があったが,ここ10年ほどは当時のような大雪になることは無い。この時の大雪の風景は今の若い人達には想像がつかないのではないだろうか。通りは両側がうずたかく雪の壁が出来ていた。まるで迷路の中を歩いているようであった。そのくせ,道路はアスファルトの路面が見えていた。昔の雪国の記憶とは全く別物の風景であった。
 雪だけではない。技学を目指す大学というのも目新しかった。20年前,長岡技術科学大学は新構想の大学として先端を切っていた。それは今でもそうではあるが,その後,全国の大学が長岡技術科学大学の後を追い始めたので,現在ではさほど目立たないものとなってしまった感がある。例えば,高専生を入れる大学,産学協同(技術開発センターを中心として),実務訓練,などなど。わずかに実務訓練は今にいたるも他の大学が追随していない本学の特徴であることを,常々誇りに思うのである。
 着任してからは,地域に根ざした研究を心がけた。テーマが次第に地域の河川の問題,雪の問題に偏ってきた。20数年を過ぎた今,自分ではどれほどのことが出来たかどうか,自信を持って語れるわけではない。ただ,沢山の学生達,同僚達,そして地域の人達と一緒に仕事が出来たことを喜ぶだけである。
 もう一度20数年前のキャンパスを振り返ってみよう。この20数年間の変化は目覚しい。林立する建物,学生数は5割も増えたであろうか,留学生と女子学生は,ほぼ0からキャンパスの中で欠かせない一角を占めるようになった。ひょろひょろだった桜の木は見事な大木の並木に成長した。もちろん研究施設も教官数も増えつづけた。大学に満ち溢れる活気は20数年前とは比べようも無い。それでも,「最近の技大生はレベルが落ちてきた」とはよく聞く言葉である。本当だろうか。もし本当ならどうしたら良いのであろうか。
 これには当っている面もあるようである。そしてその理由はさまざまなものが考えられるであろう。第一にそういったレベル低下の問題は日本全国で起こっているともいわれている。しかし,だからといって,見逃していい問題ではないと私は思う。私個人としても,この20数年間携わってきた教育が,心行くものであったとは思っていない。しかし,基礎を重視する教育,技学を取り上げるといった風に「やる気」を起こす教育と研究,何よりも「長岡技術科学大学」にいるというプライド,これらを守って新しい時代を見据えるならば,レベル低下の問題を云々する余裕は無いのではないだろうか。長岡技術科学大学の未来に誇りを持ち続けたい。



長岡のことは夢のまた夢
嶋 田 英 輔(経営情報系 教授)
 大学の教官など夢にも考えなかった私が「来学しないか?」とのお誘いに無謀にも乗りました理由は,先輩が「今の企業でどんなに成果を上げても外国企業のためだろう?日本国のためになる仕事をして来い!!」と背中を押してくれた事です。えらく大時代的な激励の言葉でしたが,いずれの時代にも教育が国の礎であるという先輩の助言に胸を打たれました。「小林虎三郎さんの想いが満ち満ちた長岡の地はまさにうってつけの場ではないか!」との殺し文句が追い討ちを掛けました。やって来てみて,毎日が非常に愉快な日々でした。
 やがて天と地の利に恵まれた長岡がかって何故天下に号令をする地たり得なかったのか不思議になってきました。何人かの経営者の方ともお話をさせていただく機会がありました。皆素晴らしい方々でした。学生諸君ともクリスマスに鮟鱇鍋を囲んでもみました。そうした結果を,長岡技術科学大学が天下に雄を唱える大学たる条件と照合して見たかったからです。しかし2年の歳月は私には少し短かすぎたようです。その意図は夢になりました。
 講義にせよ研究にせよ,新機軸を出すことはえらく大変なことだと実感しました。経営経験者として学生に伝承すべく講義をしても,学生の前に立っているのは教官であって経営経験者とはもう別人なのです。その穴を埋めるためバリバリの経営者にお出で頂いて講演をお願いしたり,VTRで有名企業の社長さんのお話を再現し,それらの学生の感想文を読んで,その都度自分の話し方の未熟さと,説得力の無さを反省する日々でした。しかし昨夏NHKが放映した「カラーで見る戦前戦後」のVTRで,現在の北朝鮮を思わせる戦前の日本人の挙動や,空襲で丸焼けになった東京や横浜の惨状のカラー映像に,学生達が咳一つせず食い入るように見入る目つきを見たとき,『「現代社会と経営」の講義担当で良かった!まさにマルチメディアがキーだ!』と夢見心地でした。
 ところで,この大学に来てゴルフが下手になっていることに気が付きました。かって80台で回っていたのに,120に届かんばかりの成績に落ち込んだのです。長岡カントリ−クラブの素晴らしさに見とれたモーニングショットは必ずチョロ。回って帰ってくると皆の哀れみの眼差しがありました。申告したハンデ22も34に修正されました。悔しさで僅かばかりの改善の努力をしたら,なんと昨年11月,技大と協力会のコンペで巨大な優勝カップを手にしたのです。夢のようでした。ディフェンディングチャンピオンとして戻って来られますので,重度の改善で再度の優勝を期します。大学の雄たるべき進化の軌跡をこの地で見定めるためには絶好の機会ですから,これこそは夢であってはならないと考えています。
 ご鞭撻頂き誠に有難う御座いました。



41年間の公務員生活を振り返って
安 達 義 弘(留学生課長)
 昭和38年3月1日付けで新潟大学に奉職以来,41年間の公務員生活に3月31日をもって別れを告げることとなりました。この間,いくつかの失敗もありましたが,大きな病気もせず何とか無事に定年を迎えることができます。これまでお世話になった数多くの皆様に改めて感謝の意を表します。
 平成5年4月1日付けで最初の課長職として東京工業高等専門学校の学生課長を拝命してから11年間で今も印象深く記憶に残っているのが,東京高専で過ごした2年3か月間のことです。種々のプレッシャーの中で次々に発生する問題(入学志願者の確保,寮の改修,留学生の病気入院及び部下職員の死亡等)を,春山校長,教務・学生・寮務の三主事及び松阪事務部長の適切な指示の下,教官の理解を得ながら学生課の職員が一丸となって取り組んだことが,つい昨日のことのように思い出されます。
 本学には平成14年4月1日から2年間という短い期間でしたが,新設された留学生課の初代課長として皆様に大変お世話になりました。
 平成16年4月1日の国立大学の法人化を機会に様々な意味で大学も変わらざるを得ないと思いますが,長岡技術科学大学のますますの発展と皆様の一層のご活躍とご健康をお祈りいたします。



最後の仕事
島 影 昭 児(図書課 目録情報係長)
 昭和60年頃化学系に藤本先生という方がおられました。先生は残念にも現職中に亡くなられました。
 その頃,遅くまで仕事をした時夕食のため学生食堂に行くと,先生はいつも研究室の学生と一緒に和気藹々と食事をされ,私とはちょっと挨拶をする程度でした。ある時,廊下で先生にすれ違った際,呼び止められ「島影さん,何もしない図書館だったら俺はつぶしてやる」と言われました。当時,図書館は実際に停滞していました。
 その後,この藤本先生に言われた言葉が私の頭に去来します。図書館がユーザにサービスという形で提供できるのは,いわば完成品です。完成品に持っていくまでには言葉は良くありませんが画策をする裏舞台が必要です。私の頭の中で「画策する裏舞台」と藤本先生の言葉が結びついたのは大部経ってからでした。
 本学が購読しているジャーナル(学術雑誌)の約6割以上が研究室等の経費負担となっています。電子ジャーナルは先生方だけでなく,多数の大学院生が利用しています。ジャーナルの財政基盤強化の動きは図書館にとっては何年来の懸案事項の1つでした。三山先生,今井先生,清水先生,林先生,飯田先生,小島先生が館長在任時代にこの問題を熱心に取り上げて下さり,図書館運営委員会で議論され,時の変遷と共に次第に学内の理解と協力が得られてまいりました。そして引き継がれた現在の西口館長の下で学術雑誌の共通経費化が委員会総意で可決されました。
 これからは,大学の責任のもとに安定的に学術雑誌の提供が可能になると思います。選定に関しては,図書館の責任も重大になります。
 今後長岡技大の図書館が発展することを切に願っています。沢山の方々にお世話になりました。厚くお礼申し上げます。